「ウソ」について考える

よくお家や学校、いろいろなところで私たちは「ウソはいけないこと」と教えられてきました。今日はそんな「ウソ」について考えてみようと思います。

「ウソ」ってそもそも何?

辞書で「ウソ」を調べると、「事実に反する事柄」「人を欺く(あざむく)こと」「いつわり」などの言葉が並びます。
が、皆さんが「ウソ」をつく場面はこんな感じではないでしょうか?

先生:皆さん、宿題はやってきましたか?
私:昨日、宿題はしっかりやったんですが、無くしてしまいました。(実はやってない・・・)
母:宿題は終わったの〜?
私:お、終わったよ!そ、そんなに宿題なかったから・・・(めっちゃ宿題溜まってるし、終わってない)

などなど、皆さんの中にも思い当たる人はいるのでは?

「ウソ」の目的を考える

(これはカワウソです。カワウソはウソではなく、平安時代の文献の中にある「乎曽(ヲソ)」から来ていて、「川に住む恐ろしいもの」という意味だそうです。見た目は可愛いのに・・・)

先ほど挙げたよくある例では、宿題のやりたくなさから、先生や母親に「ウソ」をつきました。その「ウソ」をついた目的は、先生、母親から宿題をやっていないことを追求される、責めらることを避けるために「ウソ」をついたのではないでしょうか。
また詐欺師(さぎし)のように、そもそも騙す前提で物事を進めようとする人たちに嫌悪感を抱くのはそこの「悪意」が見えるからですね。これと同じでここで登場した母親も先生も「うそをついたこと」に怒るというよりも、騙そう(だまそう)としている悪意に怒っているんです。

まぁ、できなかったもの、やらなかったことについては自己責任ですが、「約束」はできる限り守りたいものですね!

優しい「ウソ」を考える

私の「ウソ」にまつわる話で好きな話があります。有名な話ですが、皆さんの意見も聞いてみたいですね!

ドイツにある老人介護施設では、アルツハイマー(脳の病気で記憶や行動、思考が機能しなくなる病気)を患う入居者がおり、施設から抜け出し、失踪してしまうことが課題になっていました。
しかし、施設から抜けてもすでに家族が亡くなっている人やすでに住んでいた家がない人がほとんどで、しかも病気のせいで記憶や思考が機能していない為、結果的に迷子になってしまうとのことでした。
ある職員が施設を抜け出す入居者を観察していると、あることに気がつきました。それは、施設から抜け出す人はまず、施設の前にある「バス停」を利用しようとすることでした。が、実際にバスに乗っていると病気のせいもあり、「自分がどこに行こうとしているか」「なぜバスに乗っているのか」などを忘れてしまうのだそうです。
そこでバス会社と協力をし、その施設の前に「偽物のバス停」を置きました。すると施設を抜け出した入居者がそのバス停のイスに腰掛けバスを待つのです。当然、バスは待てどもきません。
が、しばらくするとバスを待っていた入居者は「自分がなんでバスを待っていたのか」を忘れてしまいます。そんなタイミングを見計らって、施設のスタッフは、

「バスも遅れているみたいなので、中でコーヒーでもどうですか?」

と聞くと素直に応じ、施設に戻っていくそうです。

この施設では、ニセモノのバス停を置き、老人たちに「ウソ」をついているのです。
しかしこの「ウソ」は、老人たちが「家に帰りたい」「家族に会いたい」という気持ちに寄り添った「ウソ」のように見えます。
そういえば、「偽(ニセ)」という漢字は、人の為と書きますね。

思いやりから始めよう!

「ウソ」について今回は話を進めてきました。皆さんは「ウソ」についてどのように考えますか?またこの「ドイツのバス停」の話はどのように考えますか?教えてください!
いずれにしても使う「ウソ」なら誰かのために、優しい「ウソ」であってほしいと思います。

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